それでも季節は移ろっていく。「酷暑日」にあえいだ苛烈なときが過ぎ、夜半は虫の音とともに読書の秋へと向かいつつある。
このほど明治時代を代表する俳人、正岡子規が明治31年の正月に新年への心情を込めて詠んだ新出句が2句見つかった。東京の子規庵保存会が発表したもので、子規方を訪ねた弟子たちが俳句を記した冊子「歳旦帳」に書かれており、子規の筆跡と確認された。
子規といえば、大相撲を詠んだ句が多い俳人でも知られる。
これらはほんの一部。その数からしても相撲が創作意欲をかきたてる対象であったことがよくわかる。
平安時代の弘仁年間に宮中儀式の「相撲節会(すまいのせちえ)」が定められた。節会は諸臣を朝廷に集め、天皇が出御して賜った宴会。そこで現在の取組にあたる「手結(てつがい)」が行われた。この節日は陰暦7月に開かれていた。明治政府が同5年に太陽暦へ改暦。かつての陰暦7月は、新暦では8月上旬から9月中旬ごろに当たるため、歳時記では「相撲」は秋の季語として定着した。
子規の親友に近代文学の巨匠、夏目漱石がいる。2人は明治17年9月、東大予備門予科へ入学した同級生で、そろって第一高等中学校本科第一部(文科)へ入学。明治22年1月ごろから親しい交流が始まった。漱石文学は漢文や英文学の素養が礎にあるが、文章力の才能を開花させたのは子規だという専門家は多い。子規の「写生文」の概念が漱石に大きな影響を与えたといわれている。
「写生」はフランス語の「デッサン」を訳したもので、フランスに留学して洋画を学んで帰国した画家の中村不折が友人の子規に教え、できた言葉といわれる。浮世絵などに定着した日本画の型に批判的で、自らの目で見て感じた姿を描くことを主張。その鍛錬がデッサン。子規は自分の言葉で素直に表現する大切さを漱石や弟子へ伝えた。漱石もまた、たびたび旧両国国技館へ足を運ぶほどの相撲好きで、作品の「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「野分」にも相撲の描写が出てくる。
かつて、横綱経験者の師匠からこんな意見を聞いた。本場所を控えた横綱、大関の稽古場の様子を報じた記事を手に「何番取っていくつ勝ったかなんて、稽古場では意味を感じない。どんな稽古をしているのか、どんな様子で汗を流しているのか。それが大事だ」。
その指摘を受けたとき、漱石の随想「思い出す事など」を思い出していた。自身が喀血(かっけつ)して死生観を語る章で、相撲を引き合いに人生を語る筆を進めていたからだ。
「力を商いにする相撲が、四つに組んで、かっきり合ったとき、土俵の真ん中に立つ彼等の姿は、存外静かに落ちついている。けれどもその腹は一分と経たないうちに恐るべき波を上下に描かなければやまない。そうして熱そうな汗の球が幾条となく背中を流れ出す。最も安全に見える彼等の姿勢はこの波とこの汗の辛うじてもたらす努力の結果である。静かなのは相克(あいこく)する血と骨のわずかに平均を得た象徴である。これを互殺の和という」
この文章には、漱石の写生の眼力と洞察、想像力が込められている。
「二、三十秒の現状を維持するに彼等がどれほどの気魄(きはく)を消耗せねばならぬかを思うとき、看(み)る人ははじめて残酷の感を起こすだろう」
土俵風景の描写は、上質な文学にも深く根差す。19日は子規の忌日。最期に詠んだ糸瓜(へちま)の句にちなむ「糸瓜忌」が、今年もやってくる。(奥村展也)